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こんにちは。

編集者のかんらくです。

出版社の編集者は、今でもまずまず人気の職業のようです。

今回は編集者に向いている人、逆に向いていない人とはどんな人か、つまり編集者の適性について、話をしたいと思います。

これは、ある意味、一般的なイメージとは正反対かもしれません。

まずは、編集者に向いている人の特徴を5つ紹介したいと思います。

 

(1)普通であること。平凡であること。これが最大の武器

普通であること。平凡であること。平均的であること。これが編集者にとって最大の武器になります。

意外ですよね?

なぜなら、編集者は企画職であって、クリエイティブな仕事だと一般的に思われているからです。

ですから、編集者になるには、人とは違う特別な才能と感性がなければならない、だから、そうそう誰でもなれるものではない。

学生と話をしていると、そんなイメージを持たれているという肌感があります。

たしかに、「企画が先にありき」で、後から著者を当てはめる本作りをする、企画よりの編集者もあります。

そういう本作りも素晴らしいし、会社貢献もできると思います。

ここでは、僕が本質的な編集者と考えている資質について語っていきたいと思います。

つまり、企画ありきの本作りではなく、著者の伝えたいことが先にありき、の本作りをする編集者です。

それは、クリエーターのような特別な才能がなく、普通であること、平凡であることこそ、何ものにも変えがたい最強の武器になる編集者です。

どういうことかというと、編集者は、大衆の代表として、著者の原稿に向き合い、分からないこと、伝わらないことを「これでは分からないですよ」「ここは伝わらないですよ」と言い続ける人なんです。

そこだけは決して妥協せずに、著者に忖度せずに、読者の代表選手として、読者側に立って、最後の砦にならなければなりません。

なぜなら、著者はゼロイチを生み出すクリエーターですから、その才能ゆえに、大衆の感覚から離れ、そのままアウトプットしても、大衆には伝わらないことが多いからです。

凡庸な(と言っては失礼ですが、自分も含めて)平均的な大衆の気持ちは、才能の塊のような人たちには、分からないのです。

著者のもっとも強いコアなメッセージをすくい上げたうえで、ひたすらそのメッセージが強く、読者に届くように、原稿はもちろん、本のスタイルやタイトルや見出しを磨いていくという仕事なんです。

ただ専門書の場合は少し異なり、その場合は専門書の読者群の代表(平均)にならなくてはいけません。

医学書や美術書など、専門書の編集者も、大衆の代表とは違いますが、そのカテゴリーの中での代表というスタンスは同じです。

話を一般書に戻しましょう。

ですから、編集者はいわゆるミーハーでいいのです。

「鬼滅の刃」とか、「君の名は」とか、「アベンジャーズ」とか、韓国ドラマとか、大ヒットするエンタメが90%以上、自分にもはまるというのは、ものすごく適性があります。

大衆のマジョリティが「いい」と言うものを、ぶれずに「いい」と心から思えることが一番大事な能力(といえるか分かりませんが)です。

繰り返します。

普通であること。平凡であることが編集者の最強の武器になるのです。

このことが理解できると、現役の編集者も、今目指している人も、「自分は平凡で、特別な才能がないから、向いてないんじゃないか」という悩みが、突然強みに変わる、パラダイムシフトを体験できるのではないでしょうか。

 

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(2)世の中に特に伝えたいことはない

編集者は、著者に寄り添って、そのメッセージが強く、広く届くようにサポートするのが仕事です。

ですから、自分には特に伝えたいことがなくていいのです。自分の伝えたいことを伝えるわけではありません。

著者の伝えたいことに、共鳴し、共感し、それが伝わるようにアウトプットするお手伝いをする役割です。

言葉を変えれば、とがった才能を持った著者が、才能を思う存分発揮できるように、内に秘めた素晴らしいものを引き出す仕事でもあります。

例えるなら、ボクシングのセコンド、野球でいうキャッチャーのようなイメージです。

主役はあくまで、ボクサーであり、ピッチャーです。

編集者は入れ物、器のようなものですから、空っぽでいいのです。

空っぽだからこそ、注がれれば注がれるほど、著者の情熱に感化され、コンテンツを世に送り出し続けることができるのです。

繰り返します。編集者はクリエーター側の人間でも、作家側の人間でもありません。

普通の人間の代表なのです。

あまり、強調すると、イメージが崩れたり、がっかりする人もあるかもしれません。

ですが、本質的なところなので、あえて強調しました。

ここを間違えると、著者の功績を自分の功績と勘違いして、慢心してしまい、長く続けることができなくなりますので。

 

僕も、子供の頃は、作家になりたいと思っていました。

がんばれば、一冊くらいは、書けるかもしれないと思いましたが、コンテンツを生み出し続けることは無理だと実感しました。

想像も創造も、すぐに尽きてしまうのです。

東野圭吾さんや池井戸潤さんのように、ハイクオリティの物語を生み出し続ける人は、まったく人種が違うのだと思わざるをえません。

編集者は、自分に伝えたいことがなくても、著者のメッセージに共感し、ともに発信する仕事だから、作り続けられるのです。

 

(3)好奇心旺盛であること

編集者は、自分に伝えたいことはなくていいのですが、好奇心旺盛である必要はあります。

好奇心がなければ、人の話に共感したり、感動することができないからです。

ジャンルを問わず、何事にも好奇心を抱くという旺盛さは、一般書の編集者にとって、鍛えることが難しい大切な資質です。

 

(4)人見知りでもいいが、人が好きであること

好奇心が旺盛であることと、関連しますが、基本的に人が好きであることが大切です。

そうでないと、著者に寄り添って、著者のメッセージを深堀りし、磨くことができないからです。

初対面の人と会うと緊張する、とか、うまく話せない、人見知りであるということがあっても、問題ありません。打ち解けるのは時間の問題です。

ただ、人と出会うのが、本質的に嫌いという人は、編集者には向いていないと思います。

そもそも仕事が楽しいと思えないでしょう。

 

(5)先入観、固定観念を疑える

編集者は必ずしも、要領がよくなくてもいいと僕は思っています。

その変わり、大事なことは、物事の本質にたどり着くまで、あきらめずに粘り強く考え抜くことができるということです。

その一番は、この著者の一番の強みは何なのか、というところです。

言葉を変えると、この著者がいちばん伝えたいこと、いちばん強いメッセージは何なのか、ということです。

そして、その著者のメッセージと、読者との接点を見つけて、そこをつなぐのです。

その際には、

セオリーだから、とか、世の中の常識だから、ということを、一度、ゼロベースで疑ってかかれるか、ということが重要です。

みんなが、「そうだ」と言っていることを一度、フラットに疑う力が必要になります。

具体例を挙げましょう。

かれこれ20年くらい前に、『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』という会計学の入門書が社会現象となるほどの、ミリオンセラーになったことがあります。

これは、「会計学は面白い」「会計学に関心をもってもらいたい」という著者のメッセージと思いが、出発点です。

そこで、会計学の入門書を作ろうということで、編集者が読者との接点を考えたのです。

一般の人は会計学に関心がありません。難しそう、と敬遠されています。

「入門書」とは、そのことを分かりやすく解説した本、というのが、常識です。編集者はその常識をゼロベースで疑ったのです。そして、そもそも会計学を素人に分かりやすく解説することなんかできない、と気づいたのです。

そこで入門書の定義を再設定しました。「会計学の入門書とは、会計学の分かりやすい解説書ではなく、会計学に関心を持ってもらうためのもの」と。

そこで、多くの人が、日常なんとなく抱いていた疑問、「さおだけ屋って、なんで商売として成り立っているんだろう?」をタイトルにすることで、見事に大衆と会計学との接点を作ったのです。

これが編集者の仕事です。

入門書のセオリーを一度、疑ってみることで、辿り着いた成功です。

もちろん、疑ってみた結果、やはりセオリーがいちばんいい、という結論にたどりつくのはまったく問題ありません。

そもそも、セオリーとは普遍的にもっとも効率よく成果を出す法則ですから。

ただ、いったん自分の頭で考え、自分の言葉で納得するということが大切です。

それは客観的な答えということではなく、

自分の言葉で解釈し、「これだな!」と確信を持てるところまで、考え抜くということです。

疑う力について、とても大事なことなので、もう一つ身近な例をあげましょう。

スーパーに行って、例えば醤油を探していたとしましょう。近くにいた店員さんに聞いたところ、

棚を一通りチェックして、「売り切れてしまいました」と言われた時に、どうしますか?

たいていは、「店員が言うならそうなのだろう」とあきらめて、他の店に行くか、後日にするか、だと思います。

そういう時に、「この人が言っていることは本当なのか?」と一度、疑ってみるということです。

冗談のようですが、本当の話。そこで、別の売り場にいた店員さんに聞いてみると、「ああ、しばらくお待ちください」と言って、奥から在庫を出してきてくれることがあります。

こんな日常の些細なことで、固定観念を疑う力を鍛えることができます。

人を疑うというより、自分の固定観念を一度、疑ってみる力ということです。

この5番目は、一段上の編集者のステージに行くには、もっとも重要な資質かもしれません。

ちなみに、これらは、自分ができているということでは決してなく、僕自身、努力して追求していることです。

 

(追加)「こんな本がほしい」の引き出しを増やす

この記事を最初に書いてから、ひとつ抜けていたなということがあったので、最後に補足しておきたいと思います。

一段上のステージの編集者になるには、「自分ならこんな本がほしい」「自分はこんな本が読みたい」の引き出しを多く持っていることです。

それは、日常生活の中や、いろいろな本を読む中で、問題意識を持っていれば、自然とストックが増えていきます。

これは推測ですが、一例を挙げましょう。

最近、ライツ社さんから出版された『認知症世界の歩き方』というベストセラーがあります。

その本のコンセプトは、認知症の人は世界がどう見えているかを、認知症の人の視点で描くというものです。

これを見て、僕は一瞬で買おうと思いました。

想像ですが、これはきっと、企画を考えた人は、普段から何らかの形で認知症の方と関わりがあり、

「世の中に、認知症を解説した本や介護の本はたくさんあるけど、あくまで第三者が、認知症を客観的に解説したものばかりで、認知症の人の視点で書かれた本がないな、そういう本があれば、もっと認知症の人の気持ちを理解して寄り添うことができ、いい関係を築けるのに・・・自分ならそういう本が読みたい」

と考えたのではないかと思っています。

そうだと仮定すると、このように、ふだんから「自分ならこんな本が読みたい」という「欲しい本」のストックがあると、そこに企画が結びつつき、とても素敵な本が生まれることがあります。

「自分ならこんな本がほしい」という意味は、編集のスタイル(対話形式、図解、イラスト漫画入り、など)であることも、コンセプト(認知症の人の視点で認知症の世界を描く、など)であることも、テーマ(アドラー心理学など)であることもあるでしょう。また、その組み合わせによって、それまでになかった新たな本が生まれることも多いでしょう。

いずれにしろ、その企画がまだ世の中に存在しないものであると、最高です。

 

編集者に向いていない人

最後に編集者には「向いてないな〜」と思う人はどんな人か、ザックリとお伝えしたいと思います。

つまり上で解説した(1)〜(5)の反対の人なのですが、

「人と一緒にいるのが嫌」「常に一人でいたい」「人と出会いたいとは思わない」率直にこう感じている人は、編集者には向かないと思います。それが悪いというわけではありません。編集者という職業を選んでも、辛いだろうな、ということです。

また、世の中で、流行っているものが、なんで流行っているのか、いつも分からない。こういう感覚の人も、一般書の編集者には向いていません。映画や本の自分の評価が、アマゾンやYahooのレビューと一致しているという、大衆のど真ん中の感覚の人が、向いています。

特異な感性を持った芸術家肌の人は、クリエーターに向いていて、編集者という道は選ばないほうがいいと思います。

また、必ずしも本好きである必要は、実はないのですが、活字が嫌い。活字を見るのが辛い。嫌悪感を感じるという人は、根本的に向かないと思います。原稿を何度も繰り返し読まなければなりませんので。

意外と思われたことも多かったかもしれませんが、何かの参考にして頂けると幸いです。

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