こんにちは、出版社勤務のブロガーかんらく(@kan_raku44)です。
今年の1月に、デンゼルワシントン主演のハリウッド映画「マグニフィセント・セブン」が公開されました。
目次
荒野の七人のリメイク
1960年に公開された西部劇「荒野の七人」のリメイク作品なのですが、そもそもこの「荒野の七人」も、「七人の侍」のリメイクなのです。
なぜ「七人の侍」は、海外でもたびたびリメイクされるほど、名作として愛され続けているのでしょうか。
リメイク作品が公開された今、改めて考察しました。
「七人の侍」で、黒澤監督が伝えたかったこと
「七人の侍」は前半と後半に分かれた長編映画で、映画館で観ると、間に休憩が入るんです。
その前半の最後は、こんなシーンで終わります。
野武士の集団に狙われ
野武士の集団に狙われ、くりかえし略奪を受けている村を救うために、七人の侍が、義に立ち上がります。
握り飯を腹いっぱい食べられるという報酬だけで、命をかけるという胸熱くなる映画です。
恩賞は握り飯
七人には、握り飯の他、何の名誉も土地も恩賞もないのですから、よほどの変わり者か、高潔な人物のどちらかということです。
七人のリーダーとなる志村喬演じる勘兵衛が、戦略を練り、村人に発表します。
すべての敷地は守れない
すべての敷地を護り抜くのは人員から言って不可能だから、ある一角の数世帯は、家を捨て、他の家に住まわせてもらうように命じます。
するとその住人たちは、「人のためになぜ自分たちが犠牲にならなければならないんだ」と不満を爆発させ、勘兵衛の言葉に逆らって、自分の家に戻ろうとします。
感情をあらわに
その時、それまでずっと温厚であった勘兵衛が、突然感情をあらわにし、刀を振り上げ、その百姓たちを追い回し、村人の集合の中に、連れ戻すのです。
そして、大喝一声、演説します。
「人を守ってこそ自分も守れる。己のことばかり考える奴は己をも滅ぼす奴だ」
映画史に残る傑作
映画史に残る傑作と言われるこの「七人の侍」という作品で、黒澤監督がいちばん伝えたかったのは、実はこんなシンプルなメッセージだったのではないかと思います。
そう考えると、名誉にも恩賞にもならない戦に、なぜ七人が命をかけたのか、の疑問に説明がつくように思うのです。
シンプルだからこそ強い表現となり、時代や国を超えて、強烈に惹きつけてやまないのだと思います。
映画の後半は、まさに、この言葉の姿にかけた証明なのでしょう。
セットやカメラワークより重要なもの
七人の侍が、名作といわれる理由はいくつかあります。
リアリティに徹底的にこだわったセット、複数のカメラを同時に動かすカメラワーク。
映画の命は脚本
それらもたしかに大事な要素には違いないのですが、それよりも映画の命は脚本であり、その脚本を貫くボディーメッセージです。
料理でいえば、伝えたいメッセージが食材のよさ、脚本は味付け。特殊映像や演出は盛り付ける皿や器に例えられます。
ですから、料理の評価は、味に集約されるでしょう。
もちろん味がよい上に、器や盛り付けがよければ、その満足度は相乗効果で格段にあがります。
器が粗末でも、味がよければ満足する
しかし、たとえ器が粗末でも、味がよければ「食べてよかった」という満足は得られるのです。。
たとえ低予算で、特殊な演出がない映画でも、脚本がよければ、「観てよかった」という満足感はえられるものです。(たとえば、「十二人の怒れる男」「ロッキー」など)
映画のボディー
映画のボディーとなるメッセージ、観終わった後に伝わってくるメッセージが、一番重要なのです。
「人を守ってこそ自分も守れる。己のことばかり考える奴は己をも滅ぼす奴だ」
「七人の侍」は、作品の根幹を貫くメッセージが時代や国を超え、多くの人の心をとらえ、共感を呼んでいるところに、名作たるいちばんの理由があると思っています。
この作品は、現在、動画配信サービスのdTVでも鑑賞することができます(30.3.26)。
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